ビッグマッサー タハラ
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http://www.bigmasseur.com

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「SURFING FUN」
70年代、OISOロングビーチ坂の駐車場。スケートボードに乗ったサーファーのお兄さんたちは、長髪をなびかせて颯爽と坂を何度も何度も駆け降りた。「ボクもあんなふうにやってみたい!」10歳の私は、母親の手を引っ張り、ラスカ大森スポーツに陳列してあった子供用スケボーを買ってもらった。毎日のように二宮の実家前の狭い坂道で練習した。出来るようになると、自転車でロングビーチまで行き、憧れのお兄さんたちのマネをした。百合ヶ丘団地ができ、富士見が丘の造成工事をしている頃、建設中の二宮秦野線が通行止めになる夜、東海道線ガード下の坂で二宮の若者達は、スケボーを練習した。
中学2年になると今度は親友とその兄貴達の影響でサーフィンを始めた。二宮はサーフィンが出来る波がないので、大磯に行った。中ボーの私達はサーフボードを小脇に抱え自転車で大磯まで通った。まだ5月、朝3時というのに裸で海に入った。無我夢中だったので寒くなかった。その当時の仲間は現菓子の里小早川氏、西友内酒店店長戸丸氏、カシワギ文具店柏木氏、二宮プラザ接骨院池田氏、らがいた。
大磯には上手く、カッコいいサーファーが沢山いた。現タスクサーフショップ今須氏は我々の年代の番長だった。学ランにビーサンで、パッソルにまたがり、平塚から来ていた。岩城晃一みたいでカッコよかった。この毎湘通信発行元の渡辺新聞舗のサトル氏にもスタイルがあった。皆今でこそ一流の経営者達だが、サーフィンのことしか頭にない時代があった。そして皆今でも波に乗り続けている。
大磯には厳格なサーファーの縦社会があって、いろいろなことを学んだ。そんな中でもまれ、私は大会に出るようになり、次第に上達していき、20歳になる頃にはドミンゴの阿部川氏にサーフィンの最高峰ハワイに連れて行ってもらい自信をつけた。そのうちライバルたちはプロになったが、私はなれなかった。腰を患いその道は断念し、マッサージ整体師になった。一時は海から離れたが、大磯に治療院を開業し、再び海に入れる環境を作った。
このGW中、鵠沼で開かれたサーフィン大会で私は見事優勝!40歳になった今でもまだまだ捨てたもんじゃない。久々の表彰台は最高に気持ち良かった。
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